アリウス編2章前編 感想|“もう”の意味と「Quovadis, Domine?」

【ネタバレ注意】ブルーアーカイブのメインストーリーVol.6「過ぎ去りし刻のオラトリオ編」2章等の内容を含みます。

アリウス編こと「過ぎ去りし刻のオラトリオ編」2章「あの刻に告げし決別」前編が公開されました!

お恥ずかしながら初読(分割読み)では腑に落ちない点が多く感想を書くか迷っておりました。

ですが「概念的存在」「聖書の言葉」を意識し再度通しで読み直してみたところ、

うまく飲み込めなかった部分がかなりすっきりしたのでそれについて語ってみます。

概念的存在:アリウスの集合思念体

この存在を意識しているかいないかで今回のシナリオ印象はかなり違うなと感じました。

と言うのも私自身初回は

  • ここでこのキャラそんなこと言う?
  • これなんだろう、フレーバーテキスト?

みたいに首を傾げながら読んでいた部分があったからです。

それが解消されるに至った考え方を語るために、まずはこの存在について確認していきます。

明確な描写

この存在について明確に描写されたのは二度。

気を失ったミネの精神世界と、外典を読むスバルに語り掛ける場面です。

「光は我らから去り~」から始まる言葉がどちらでも使われていることから同一存在と見てよいでしょう。

そしてスバルとの会話の中でこの存在は自らをこのように表しています。

過ぎ去りし刻のオラトリオ編2章10話「巣」 より

ミネの時は天使の攻撃直後だったので「恨みの念が届いたのかな」程度に思っていました。一方的に語って問いを投げかけるだけでしたしね。

ですがこのシーンにより明確に「対話可能な意志をもった存在」だと分かります。

さらにアツコ達は「元々、アリウスでは変な事が起こっていたんだ」とも言い、

これまでも超常的な何かがアリウスに影響を及ぼしていたことを示唆していました。

不自然に思った場面

列挙すると

  • 謎の「信じることをしなさい」とそれを否定するミネ
  • 「もう、できないから」
  • スバルの変化

の三つです。ただミネとスバルについては後々語るのでここでは「もう」の部分だけ。

ラッパが聞こえた者と聞こえない者や黙示録について確認し、

スクワッドを「あいつらならできたはずなんだ!」と語気を強める場面です。ヒヨリにも何か言ってあげて?

そして「あの子達を見ていると、ふと思っちゃうんだ」と続けます。

過ぎ去りし刻のオラトリオ編2章5話「アリウス・バシリカ」 より

私はここの「もう」がどうしても理解できませんでした。だってそれは取り返しがつかない時に使われる言葉のはずです。

一体何が取り返しがつかないのでしょうか?

犯した罪?

ですがそれはスクワッドも背負った上で「今とは違う道」に至りました。

時期を逃した?

むしろ先生が来て騎士団の配給もあり、トリニティ転入の道も示されてる今が一番のチャンスでしょう。

本当に理解できず何度もログを行ったり来たりして、気づいたのです。

「私たちも」に「私も」のルビがふってあることに。

これ、必要でしょうか?名前は「アリウスの生徒たち」です。わざわざルビを振らなくても問題ないように思えます。仮に「私も」が主体でも通じます。

それでもあえて振ったのだとしたら……そう考えるとある仮説が。

アリウスの集合思念体の一人称は「我々(アリウス)」でした。

であればここでの「私たち」とは積もり積もったアリウスの意志なのではないでしょうか。

つまり精神感応や憑依の類を受けており、この言葉には思念体の意志が混入しているのではないかと。

そうなると「もう」が何を示すかは明白です。

それは「時間」でしょう

すでに肉体を失い恨みの念のみとなった「アリウスの意志」にはもう「違う道を生きる」ことは出来ないのですから。

思えばこのシーン、アリウス一般生徒達が急に攻撃的かつ過激になって、全員が一つのベクトルに向かって極端に先鋭化しているような集団幻覚に似た熱狂感がありました。某雛〇沢のように。

過ぎ去りし刻のオラトリオ編2章5話「アリウス・バシリカ」 より

恥ずかしながら初回時私はそれを「物語に動かされた極端なシーン」と感じてしまったのですが……。

この熱狂もこの場全てにアリウスの意志が満ちて感応いたと考えると今は納得できてしまったのです。

この後「マイアだって追い出しちゃったけど、毛布くらいは届けて上げたほうが」と生徒Dが普通の優しさを見せるのもあの場の異常さや狂気を感じられてよかったです。

聖書の言葉

今回のストーリーでは聖書の言葉が何度か引用されていました。

その中で気になった部分を取り上げてみます。

Quo vadis,Domine

ミネの精神世界で出てきた言葉です。

天の星も月も、
己の罪に耐えきれず、その光を隠した。

何処へ行かれるのですか?(Quovadis,Domine)

過ぎ去りし刻のオラトリオ編2章3話「信じているもの」 より

この後に出てくる「信じることをしなさい」も含めてミネでも先生でもアリウスの意志でもない、第三者が急に現れたのかと思っていました。

そしてミネの「いいえ」と否定する様子も含めて「フレーバーかな……?」とも考えていたのです。「何処へ行かれるのですか?」だけなら直前の「何を以て生きるのか?」の言い換えとも取れますからね。

ですがこの言葉を調べてみるとちょっとおかしい事に気づきます。

ただの言い換えだったら「Domine」は必要ないはずです。

なぜならそれは主を表す言葉であり、ミネへの問いであれば不要なものだからです。これでは「主よ、どこへ行かれるのですか?」となってしまいます。

そこでこれはミネに向けたものではないと考え起源を調べてみました。

言葉の起源

ローマでキリスト教弾圧が強くなり、ペテロは周囲の人に都を離れるよう勧められました。

それに従いローマから避難しようとすると、磔刑にあったはずのイエスが目の前に現れたのです。

ペテロは問います。「主よ、どこへ行くのですか?(Domine, quo vadis?)」と。

イエスは「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と返します。

ペテロは自分のローマ脱出が快く思われていないのを悟り、ローマに戻り殉教しました。

※参考:「ペトロ」(2025年10月12日(日)13:44)『ウィキペディア日本語版』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%AD

本当は新約聖書そのものにもう一つ関する記述がありなんならそちらが先なのですが、

「外典」「弾圧」という符合を考えるとこちらの方が近しいような気がします。

ここから分かるのはDomineまで含むこの言葉には「主への信仰心を見つめ直す」という文脈が存在するという事です。

アリウスとトリニティの経典は解釈は違えど同一のものとストーリーで語られます。

であればアリウスの意志が同一の信仰を辿ってミネにも精神感応することは可能なのではないでしょうか?それこそが

……信じることをしなさい。

信じてきたこと。

そして、ミネを支え、歩ませ、生かしてきたもの。
それを信じなさい。

過ぎ去りし刻のオラトリオ編2章3話「信じているもの」 より

この言葉の意味なのかなと私は解釈しました。

つまり「己の信念」ではなく「信仰」を信じなさいと

そしてその信仰すべき超越的存在とは正しき存在であり、黙示録を実現するものであり――

それはアリウスの意志である。そういう共通の信仰を辿った汚染に近い言葉なのかなと。

だからミネは「先生……?そのようなことはおっしゃっていなかったはず……」と違和感を覚え、

「いいえ……先生なら……!」と否定したのではないでしょうか?

先生なら「絶対的な存在ではなく、自分とその心が選んだ道を信じて」と言ってくれるはずだと考え、信じた道である「誇りと信念を胸に刻み」に繫がるのではというのがこのシーンに対する私の解釈です。

目をさましていなさい

ポルタパシスへ向かう際、授業への未練をこぼす一般生徒二人に向けてスバルが告げた言葉です。

――だから、目をさましていなさい。
その日その時が、あなたがたには分からないからである。

過ぎ去りし刻のオラトリオ編2章6話「迷子の子ども」 より

過ぎ去りし刻のオラトリオ編2章6話「迷子の子ども」 より

急に口調が変わったので気になった方もいらっしゃるのではないでしょうか。

意味としては「いつ終末がくるのか分からないのだから、不確かなものに惑わされないで、本当に確かなものに目を向けていなさい」といったもののようです。

ここでは授業への未練が「不確かなもの」という事なのでしょう。先生の教えなんて異教ではなく、アリウスの教えに殉じていなさいと。

アリウスの意志はミネの精神世界で「Quovadis,Domine」と聖書の言葉を用いていました。

そう考えると聖書の言葉を用いるこのスバルも既に影響が出始めているのでは、と思うのです。

スバルの思惑と自我

私が今一番気になっている部分はスバルの本心はどこにあるのかという点です。

というのもスバルはマイアの安全を思ってあの時追い出したのではないかと私は思っています。

マイアを追い出した理由

「もう」の部分で語りましたが、あの時のアリウス一般生徒達の空気は異常なほどに攻撃的でした。

マイアがあの場に居続けたらどうなっていたでしょう?下手をすれば魔女狩りが始まっていたのではないでしょうか。

だからスバルもそんな危うさを感じてマイアを遠ざけたように思えるのです。

過ぎ去りし刻のオラトリオ編2章5話「アリウス・バシリカ」 より

ここで「私も同行します」と言ったのが印象に残っています。内なる花京院ステイ。

ただ追い出すだけなら立ち会わない方が心が痛まないでしょうに、何故そうしたのか?

多分セイア襲撃時のミカと同じ心情だったのではないでしょうか。「やりすぎてしまわないように」と。マイアの身を案じたのだと思うのです。

「二度と、この場所に戻れないように」にも優しさを感じてしまいます。

「ここではない場所――例えば先生の元で幸せになって、もう戻ってこないように」そんなニュアンスを感じてしまうのは夢見がちすぎるでしょうか。

歪められた「巣」

11話「弟子たち」では「巣を守るためにあの子を追い出してしまったのだから」とスバルはこぼします。

マイアはとても弱い子です。

一般アリウス生より弱く見えるその姿は、ある意味今のアリウスを体現するもう一人とも言えます。

外の世界に憧れて出て行き、失意の中アリウスに戻ってきました。でも先生と出会えば授業に心が傾き、先生を疑うスバルに口をはさみます。しかしそれが原因でスバルに見捨てられそうになると私が間違ってましたと何度も考えを変えます。

過ぎ去りし刻のオラトリオ編2章5話「アリウス・バシリカ」 より

自分が無いかのような芯の無さ。でもそれも仕方ないのです。

だってマダムは自我を持たせないように教育して来たのですから。

そんな与えられた餌を口にするしかできないひな鳥のようなマイアを切り捨てるのが、本当にスバルの守りたかった巣なのでしょうか?

この時のスバルは「信じることをしなさい」の言葉に従った状態だと私は思っています。

本当に守りたかった「小さな雛鳥を守る巣」ではなく、「巣=アリウス」に変えてしまう。

ミネに向けられたあの言葉は、こんな風に信じるものを曲解してしまう呪詛だったのではと感じるのです。

「弟子たち」というタイトルも意味深です。

弟子とは主に従う人々全般を示す言葉として使われますが、「たち」。

権能を与えられたスバルは明確に当てはまるとして、11話に登場した誰かも含まれているのでしょうか。

まとめ|アリウスに根差すもの

というわけで私が今回キーだと思った「アリウスの意志」と「聖書」について語ってみました。

アリウスの意志については唐突に思える一方でどこか納得も出来たのです。

というのもアリウスは飲み水に困り泥水を啜り、砂糖すらごちそうとして扱われるような場所でした。

学校辞めたほうが良くない?ヘルメット団やスケバンの方がよっぽどマシな生活してそうだよ?と思わずにはいられない生活水準です。

それでも逃げ出さず内戦を続けてでもアリウスに居続けた事の異様さは、なるほど超越的存在の意識介入に納得するには十分なものでした。

「天使とは、汝ら自身を象徴する存在にすぎぬ」「まさか……この手で……」と察しつつも断罪の権能を与えられたスバル。

その心中はどこまでが本心で、どこからがアリウスの意志に呑まれたものなのか。

2章後半も楽しみです。

© NEXON Games Co., Ltd. & Yostar, Inc.
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